現代の俳文は、どのようなものであったらよいでしょうか。
簡潔な文章と俳句を重ねることで見えてくるのは、俳文の中身は詩的でなければならないということのように思います。俳諧趣味とか、俳味とかいう感覚と洒脱であることもこの分野の必要条件のようにも思いますが、もう一方で詩的なものの本意である漠然とした人の感性で浄化された観念ともいうものが第一義になければならないとも考えます。
美しい観念が必要です。上品な思想は、まさに詩的です。
蕪村にみる春風馬堤曲にしても芭蕉にみる奥の細道にしても、ともに芸術作品としての品位は、およそ洒脱な感性というもので支えられているというよりは、むしろ美しい感性、美しい観念というべきもので支えられていると言えるでしょう。
俳文は、簡潔な文章に俳句を重ねることで、俳句の広がりが実現できる、または俳句が一層独立できるようにも思えます。必ずそのことが成功するわけではありませんが、成功した暁には、それはきわめて美しい感性を表現することができる一つの形式になるのではないかと思います。
つたない知識と経験であっても、先日李白の漢詩に触れる機会を持つことができたと思います。その簡潔な文体と凛々しい、完全な言葉の空間は、文体の中でさえ静謐な空気を感ずることができました。これが李白というものかという単純な体験の喜びでした。同じような体験を蕪村や芭蕉の芸術の中で体験できるのではないかと思います。
現代の俳文というテーマは、このような背景に支えられています。